子どもが生まれた

子どもが生まれた。元気に育ってくれると良い。

さすがに忙しい。手術中や術後に待合室で待ち、途切れ途切れにくる連絡を待って説明を聞いたり、人に報告したり。それ以降も求められる手続きに翻弄されている。情報量に圧倒される。苦手な電話もたくさんしている。様々な手続き、その必要性というものに応じて動いている。絡み合った制度の中で暮らしているんだなと実感する。

手続きの順番について、ややこしくてかなり悩まされた。意外とまとまった情報が得られないように感じた。どこかで、一つの機会の中で、手続きの全体像と動く順番を掴むことができたらたぶんもっと楽。全体を見渡せて、かつ自分に何が必要なのかすぐにわかるにフローチャート的なものがあったらな、と思った。

ともあれ、ここまでパートナーが頑張ってくれたわけだから、今は当然こちらが頑張らねばならないと思っている。

名前をつけるということに関して、うまく言えないが、不思議な行為だなとなんとなく思った。これについて語ることのできる言葉を知らないので、これ以上は特に何も言えないわけだが。

さて。私はキャリアの面で、これからどうなるのかまだわからない状態だ。どうなるのか、というか、どうにかなるのか、という感じだ。だから一方では自分をなんとかしなければならない。他方、自分のことばかりに構っていられない局面がいよいよ訪れたことになる。さてどうなるか。

投稿

初めて論文を投稿した。査読を受けることになる。緊張する。ともあれ、提出までこぎつけたことは良かった。

昔、友達が論文執筆と提出について、作業として文章を書き終えることというよりは、締切と提出までの過程に身を置き続けることそれ自体がこの作業の実質なんじゃないか、と言っていた。これが自分には結構しっくりきた。あるとき、椅子は座るためのものというより、次に立ち上がるためのものなんじゃないか、と感じたことがある。同様に、ご飯茶碗は米を入れるためのものというより、ご飯の量を測るためのものなんじゃないか、と思ったこともある。発想の転換がしっくりきた例として。

さしあたり、提出することができて良かった。参加することに価値があると言うつもりはないが、とにかく参加してみることとそれをしないこととの間の隔たりは大きい。というか、質的な違いがある。0と1の違いは1と2の違いよりも大きい、と言ったらちょっと胡散臭い感じがする。むしろ、行為をすることで自分が質的に変化する、といった表現の方がより適切かもしれない。そして、この種の経験に自分は価値を感じている。今回の提出は自分にとってそういう意味を持っている。

この間、仕事を挟みながらも基本的にはぶっ通しで取り組んでいたから、疲れた。一方、いかんともしがたい解放感から自由を満喫するために夜更かししてしまった。ずっとやりたかった部屋の片付けをした。家事をやりたいという感情を自分が持つことになるとは、かつては思わなかった。本を整理した。家族と話して、漫画を読んだ。朝だ。さすがにやっちまった。

コロナウイルスに関して、状況が刻々と変わっていく。そういう状況下で、特に3月下旬以降は、論文に集中するよう心がけた。いずれにせよ自分のことをやるしかないと思ってはいたし、それで良かったと思ってはいるものの、一方では世の中が大きく動いているのに、あたかもそれと関わりがないかのように自分のことに集中することとなった。両者のギャップに、馬鹿馬鹿しさに似た感情を覚えた。どちらも同様にいわばシリアスな事柄ではあるんだけど、切実さのベクトル?が違うというか。

夜のドライブ

カーシェアを試している。時間に応じて料金がかかる仕組みなので、利用している間、用事を早く終えなくては、という気分が常に頭の片隅にあって、なんだかケチ臭くなることは否めない。とはいえ便利ではある。電車ではなかなか行けない場所へ、ふとしたタイミングでちょっと行ってみようか、ということになる。一つ一つのちょっとした遊びのハードルが下がる。要は生活水準が上がるということだと思う。

今日は原稿の進みが悪く、何か気分転換が必要になった。思いついて、夜景を見に行った。わりと近所の高台に公園があって、そこにある展望台が夜景スポットになっている。公園までの坂道は高級住宅街になっていて、ちょっと冗談みたいな豪邸があきれるほど並んでいた。聞くところ、このあたりの人たちは、この豪邸に住む一方で資産として都市部のマンションの部屋を所有していることも少なくないとか。なんだかな、と思う。

展望台には思ったより多くの人がいた。駐車時にはわりとひっきりなしに車が入ってきた。カップル、親子連れ、若者グループ。展望台への階段を上がると、人気のない崖の方にキツネを見つけた。野生のキツネを見たのは北海道に来てから3回目だった。1回目は前住居の近くの公園で、2回目はその近くの緑地で。今回のキツネはえらく人慣れしていて、結構近づいても平気だった。ただし、噛みつかれることを警戒して近づきすぎないよう注意はしていた。帰ってから調べたところ、キツネにはエキノコックスという寄生虫がいることも少なくなく、触ると感染する危険があるらしかった。下手なことをしなくて良かった。それにしてもかわいかった。

キツネを見て一通り興奮したこともあり、夜景自体にはあまり熱が入らなかった。実際のところ、夜景を見るという場合、いったい何を見ているのか、ちょっと疑問に思った。自分自身は頭でっかちな部分があって、夜景の中に知っている風景を探すことが多い。あれは○○通りで、あっちが○○塔だ、とかそんな感じで。

マテリアルなもの

机に向かっている状態が、自分にとってかなりリラックスした状態であることを自覚した。調べ物をしたり、ちょっとした文章を書いたり、そういう些細な活動のしやすさが、ストレスの少なさと結びついているのかもしれない。逆に、今まさにそうしてるんだけど、例えば寝転がりながら文字を書く(打つ)のはあまりしっくりこなくて、ストレスを感じる。「文章は背中で書く」というようなことを誰かが言っていた気がする。要は、ある行為に対しては何らか適切な状態があるということだと思う。そして、私には好きな行為がいくつかあって、それらの行為をやるにあたっては机に向かった状態が適切なんだと思う。

単純な話だが、実際マテリアルなものは馬鹿にできない。何かを促進したり、妨げになったりする。そういう具体的な威力を持っている。

マテリアルと言えば、久しぶりに筋トレをしてみた。この間、寝る前に『ホーリーランド』を読んでいたら筋トレがやりたくなったから。これまたシンプルな話だ。別の動機もある。雪かきをした時、背中の上部がちょっとした筋肉痛になって、その感覚が気持ちよかったからもう一度味わいたくなった。あと、体をもう少し思い通りに動かしたくなってきた。観念を実現するために物質的なものへの支配を強める、ということになるのかしら。それとも、身体と和解する契機もそこにはあるのかしら。

物質という言葉は考えてみると面白い。物であり、質がある。Idealismusがあまり重視してこなかったものがよく表現されている。Materialismusに物質主義という訳語をあてても良いのではないかと提案していた先輩がいて、当時、多くを気付かされた。

解放感

昨夜、遅くまで原稿を書いていた。ろくに進まなかったが。そのわりに興奮状態がなかなか解けず、寝付けなくなってしまった。よくある。日々のサイクルの中に書く時間を上手に確保している人にはこういう事態は起こらないのかもしれない。あと、単純に寝付きの良い人にも。

だから今朝は眠かった。今日はたまたま普段より1時間早く出勤する日だったこともあって、寝不足で仕事に行く羽目になった。ただ、曲がりなりにも職場にも少し馴染んできたので、いやー今日実は寝不足で頭働いてないんですよね、などと気楽に話すことができて、なんとなく楽だった。これが言えるか言えないかで辛さの度合いがだいぶ変わってくる。

かれこれしているうちに再び夜。眠たいのに漫画を読んだり、小説を手に取ってみたり、さらには辞書なしではろくに読めもしないのに外国語の本をパラパラめくったり。何をしたとも言えないような過ごした方ではあったが、これがまたなんとも心地よかった。あんまり疲れてるもんだから、気合いのいる活動はそもそもできない。無理してやってもろくなことにならない。そう開き直ったところ、普段ならほとんど感じない心地よさが生まれた。そもそも期待が、選択肢が(主観的には)ないのだから、やらなきゃいけないのにやってないという普段の焦りがない。眠りが来るのを待つだけ。良い夜だった。

遠方から友達が遊びに来ていた。楽しい時間だった。ある程度の片付けを済ませて布団に入ってから、ちょっとうんざりした気分になっている。うんざりというと語弊がある。なんというか、友達と会えるのは嬉しいのだが、どうしてこんなに疲れる必要があるのかしらと感じる。

友達は話の合う人で、そういう人は普段周りにあまりいないこともあって、とにかく話が弾み、互いに疲れているのはわかりきっているのに毎晩遅くまで喋っていた。酒も飲まずに。

それはそれで良いんだけど、とにかく、事が済んだ後に普段のペースに戻るのに時間がかかる。要は友達が来ている間が非日常になっているわけだ。

東京を離れ、知り合いもいない土地に越して来た以上、今後の友達付き合いのほとんどは非日常的なものにならざるを得ない。当時は、どうせ明日も会うんだから、と適当なところでキリをつけることができた。本当ならそういうふうに、わざわざ一大事にすることなく友達と会えたら良いんだけど。得てして、どこかに無理があると続けることが難しくなる。できないとまでは言わないし、そういう困難にもかかわらず続けていけるのが友人関係というものなのかもしれないが。

抗いがたいものが多くある。何がどこまで続いていくんだろうか。

寝たら良い

昔、何か機会があって『アラサーちゃん』を読んだことがあり、その中でこれはなかなか見事だなと思った描写があった。それは、主人公が鬱になりかけた時、ハッとそれに気付き、すぐに部屋を掃除し、風呂にゆっくり浸かり、早めに布団に入って寝る、という一連の行為によって鬱を回避する、という描写だった。

これ、わかる人も少なくないと思う。経験的に、これはシンプルだけど悪いペースにはまらないためのすごく重要な動きで、他方、少なくとも自分は20そこらの歳の頃にはなかなかできなかったこと。わりと単純なもので、例えば夜になると不安になったり心細くなったりする。あまりに長く一人で暇を持て余しているとろくなことをしない。腹が減るとイライラする。挙げればきっとキリがないけど、こういう具合に、得てして悪循環の入り口となりうる事柄には何らかの条件が伴っている。だから条件の方に対処することが重要になる。特定の状況下で次々と浮かんでくる観念をまともに受け取らず、状況の方を早々に変えることで、うまくいけば悪循環を回避することができる。

若い頃にはこれがなかなか難しく、つい観念の方に律儀に付き合ってしまうので、どんどん悪いペースから抜け出せなくなる。そういう経験を何度もしていくうちに、ある種の疲れを伴いつつ、というか疲れてくるからこそできるようになるのかもしれないが、自分が何らかの観念に囚われているということそれ自体を相対化して見られるようになってくる。もう少し自分とドライに付き合うことができるようになってくる。

そういうわけで、今や私も寝る前にあまり余計なことを考えないようにするようになった。何か嫌な観念が浮かんでもある程度は無視することができるようになってきた。

しかし、今日は、たまには嫌な感覚に少しだけ付き合ってみようと思った。言葉にしてみようと。

将来のことが時々不安になる。もうあまり若くもなく、たいした経験も積んでこなかった自分が、今後、果たしてどこかにうまく引っかかるんだろうか、という気持ちになる。

こういう時に求人サイトなんかを眺めると、もう最悪だ。可能性を丁寧に一つずつ、具体的に潰されていくような気持ちになるから。

だから今夜はもう寝る。いずれにせよ、同じことを考えるなら、たっぷり眠って冴えた頭で考えた方が明らかに良いんだから。