風邪を引いた

先日のこと。風邪で寝込んだ。丸3日ほど家から出ずに過ごした。過ぎてみると、その間なんだか現実感がなかったような気がする。

「病人役割」という概念を通して指摘されるように、病気になると普段その人に課せられている社会的な義務が免除される。仕事も家事もやらなくてよいと言われる(もっとも、それでも出てこいという悪い職場もあるし、一人暮らしの場合にはどうにか家事をやらなければならないわけだが)。出かけることもないから、住んでいる場所の立地や地域性、部屋の内装がほとんど意味をなさない。布団とその周辺だけがリアル、という感じだ。

そういう状況下で、何か懐かしい感じを覚えた。ひょっとしたら、布団とその周辺だけが具体的で、それ以外のリアリティが薄くなった結果、感覚のレベルで昔のことを思い出していたのかもしれない。今回の風邪と同じように、子どもの頃に風邪を引いて実家の布団で休んでいた時の記憶だと思う。

特に郷愁に駆られたわけでもない。単純に、昔の感覚を思い出すなんて珍しいこともあるもんだな、と思った。

 

消費者の目線

生協運動の一つの核となる要素は、消費するだけでなく生産に介入していくということ。この点において、生協運動のやり方は単なる消費者のそれとは一線を画するものなのではないかと思う。

 

最近、札幌を訪れたある人が雪まつりの一部を見た後に「雪像しかないじゃん」と言った。それを聞いて少し嫌な気分がした。

200万人都市である札幌は、その近隣の地域を含め、消滅の可能性すら指摘される地方の中では、かなりマシな状況にあるのではないかと思う。例えば飲み屋が一軒もない町だってある。

とはいえ、それでもやはり地方だ。東京をはじめとする大都市に比べれば様々な面で資源や選択肢が少ない。その中で、様々な事情からそういう所でやっていくことに決めた人たちがあれこれと活動している。雪まつりもその一つだろう。旅行者に向けて、と同時に居住者にも向けて、その地域を盛り上げるために魅力を発信していく取り組みの一つだと言えるはずだ。

地域を盛り上げるとか魅力を発信するという言い回しは、個人的にはなんとなく好みではない。昨今の状況下では、この言い回しからは地域間で強いられている競争のにおいがするからかもしれない。しかし、そこに暮らす人やそこを訪れる人が愛着を持てるよう取り組みを展開していくこと自体には、ある種の敬意を覚える。「住民参加」という言葉は、時に公的な取り組みの不十分さを覆い隠すような形でポジティブな意味を過剰に付与されて都合よく用いられることもあるけど、それでも、そこにある「自治」という要素にはやはりポテンシャルがあると思う。「こういう町にしていきたい」とか「こういう学校にしていきたい」とか、どのようなレベルでもいいんだけど、そういうことを考えて実際に動いている人たちは尊敬に値すると思う。足りない所でやっていく、そう決めたからには必要だと思うことをやる、というような真剣さがある。

その真剣さを、東京から来た人が斬って捨てる。先のコメントを受けて感じた後味の悪さは、そういう点にあるんだと思う。

もっとも、お客様を呼ぶイベントである以上、お客様に評価されることは当然とも言える。しかし、もう少し、なんというべきか、愛を持って接してくれないものだろうか。市場の論理で世界を埋め尽くすべきだと思わないのであれば。「商品」の背後にある過程や諸関係にも意識を向けてくれ、とでも言ったらちょっと偉そうかしら。

タバコ

タバコ。タバコの数あるデメリットの中で最大のものは、トラブルのもとになるというものかもしれない。家計をめぐって、勤務中の小休止をめぐって、健康へのリスクをめぐって、人と入る店をめぐって、タバコは多くの場面で程度の差こそあれ衝突や話し合いのきっかけになる。

少なくとも私は、自身の喫煙を正当化できそうにない。吸いたい理由はいろいろ出てくるんだけど、人から正論で詰められたとき、自分の説明のすべてが言い訳っぽくて説得力がないように思える。例えば吸う目的はストレス解消だと説明したとして、代替案はいくらでもあると言われたらその通りだと思う。とはいえ、吸いたいもんは吸いたいので、いやー分かってるんだけどやめられないんだよねーなどと言えば、やっぱり吸う理由の説明・正当化が要求される。

時には口論にもなる。しかし口論しながら、なんてくだらないことでケンカしてるんだろう、馬鹿らしいな、と思う。私にしたって、別にケンカしてまで守りたいものが喫煙にあるわけではない。ただ、ないとちょっと調子が狂うからあると楽。その程度のものなんだから、あってもなくても大して変わらないし、その程度のものをめぐって自己弁護するのもなんだか馬鹿馬鹿しい。もちろん、「あってもなくても大して変わらない」「その程度のもの」であることが「だから吸っていいじゃん」という結論に結び付くわけではないことも分かってる。

こういうことを考えていると、あるいはやっていると、とにかく面倒だなと思う。この面倒がなくなるならやめようかなと思えてくる。もしかしたら、健康教育の類よりも、面倒ごとが起きるきっかけを増やしていくことの方が社会の非喫煙化を推し進めるにあたって効果的なんじゃないだろうか。その意味では、値上げや店舗等での規制の強化、職場での喫煙所撤去、タバコ休憩の禁止といった昨今の動きは、タバコをめぐるトラブルが生じる機会を増やす点で、適切に目的を果たしつつあると言うべきかもしれない。

悪循環と脱出

いつもの悪循環に陥った。ひたすらゲームをやったり、ネットで普段は読まない漫画を読み続けたり、昔覚えた曲を聴き(そして歌い)続けたりして、そこから抜け出せなくなる。こういうループに入るのはだいたい、仕事がひと段落して何らかの締切がそこまで迫っておらず、外出の予定もなく、自分を止めてくれる人が不在、といった状況にあるときだ。要するに、自分は暇で一人だとろくなことをしない。ご多分にもれず、だろう。

年末から年始にかけてはひどかった。ゲームばかりしていた。うんざりだった。ただ、途中、Bリーグ観戦とスターウォーズをなんとか挟むことができたのは良かった。あれである程度の精神的安定を保つことができたように思う。

1月1日、夜。19時半頃から漫画喫茶に8時間のナイトパックで入った。退出予定の時間帯には電車は動いていない。もちろんそれは分かっていたんだけど、12時間のパックで入ることに後ろめたさを覚え、嫌な予感を覚えつつも8時間のパックを選んだ。こういう思い切りの悪いいい加減さは失敗に繋がる。歩いて帰ればいいと思っていたが、案の定、その時になったらだるくなった。朝方の3時半頃に4時間のナイトパックで入り直し、漫画の続きを読んだ。5時頃には頭痛がしてきた。狭いスペースで、徹夜で休みなく漫画を読み続けていたんだから当然だと思う。でも止まらなかった。7時半に退出する頃にはものすごく疲れていた。帰宅するだけでも一大事だった。もし近くに友達の家があったら、そのまま部屋を借りて仮眠していたと思う。幸い、こういうときに頼れる友達が近くにいないので、ちゃんと自宅に帰る気になれた。もっとも、そういう友達が近くにいたら元日から漫画喫茶になんて行こうと思わなかったかもしれないが。

ともあれ、この日のことはちょっと愉快な結果をもたらしつつある。まず、私は次の日ブックオフに行き、漫画喫茶で読んでいた漫画の続刊、読めなかった分を一気に買った。店に着いてから知ったんだけど、本がすべて20%オフになるセールだったから躊躇わなかった。そして、その後2日間にわたり、手に入れた最新の巻まで読み続けた。自室で読むのは快適だったけど、止まらないことへの焦りは続いた。そして、読み終えた時点で、ゲームをしたい気持ちがほとんどなくなっていた。それどころか、ある種の嫌悪感すら覚えている。ほぼ止まったわけだ。飛行機に乗る前に気持ち悪くなるまでタバコを吸った時の感覚に似ている。

毒をもって毒を制する、とはこういうことだろうか。もしかすると誤用かもしれない。そんな気はしつつも、しっくりくる感覚もある。まあいいや。毒をもって毒を制すると言えば、カルロス・ゴーン氏の一連の動きはそんな感じなんじゃないかと思う。

履歴書

MacBook Airの容量が小さいので、iTunesを外付けハードディスクに移している。そのため、いちいち接続しないと音楽が聴けない。自業自得ながら、不便だ。

ワタナベマモルさんの歌を久しぶりに聴いた。「履歴書なんかはただの一枚の紙切れなのさ」(「死ぬ程に生きてみる」)。そう、そのはずだよな、と懐かしい感覚が蘇った。思えば、この間、履歴書の提出を求められることが多かった。書類作成に関する小手先のテクニックもいくつか覚えてきたし、一連の過程で学歴を得て、それを武器にしたりもしてきた。帳尻を合わせてきた。今後もそれが求められるのかと思うとうんざりする。

空白や非一貫性があると、それについて説明を求められる。 詰まるところ、聞き手が納得するような一貫性、ストーリーが要求される。多少の振れ幅ならなんとか繋ぎ合わせられるものの、あまりにも大きくなると物語は破綻する。破綻すれば、なぜしっかり考えてこなかったのか、お叱りを受ける。場合によっては相手にされなくなる。

履歴書がめちゃくちゃでも、最低限ちゃんと暮らしていければいいんだが。私も他の人も。

 

君に何処か知ら脱ぬけてる――と云っては失敬だがね、それは君は自分に得意を感じて居る人間が、惨めな相手の一寸したことに対しても持ちたがる憤慨や暴慢というものがどんな程度のものだかということを了解していないからなんだよ。*1