履歴書

MacBook Airの容量が小さいので、iTunesを外付けハードディスクに移している。そのため、いちいち接続しないと音楽が聴けない。自業自得ながら、不便だ。

ワタナベマモルさんの歌を久しぶりに聴いた。「履歴書なんかはただの一枚の紙切れなのさ」(「死ぬ程に生きてみる」)。そう、そのはずだよな、と懐かしい感覚が蘇った。思えば、この間、履歴書の提出を求められることが多かった。書類作成に関する小手先のテクニックもいくつか覚えてきたし、一連の過程で学歴を得て、それを武器にしたりもしてきた。帳尻を合わせてきた。今後もそれが求められるのかと思うとうんざりする。

空白や非一貫性があると、それについて説明を求められる。 詰まるところ、聞き手が納得するような一貫性、ストーリーが要求される。多少の振れ幅ならなんとか繋ぎ合わせられるものの、あまりにも大きくなると物語は破綻する。破綻すれば、なぜしっかり考えてこなかったのか、お叱りを受ける。場合によっては相手にされなくなる。

履歴書がめちゃくちゃでも、最低限ちゃんと暮らしていければいいんだが。私も他の人も。

 

君に何処か知ら脱ぬけてる――と云っては失敬だがね、それは君は自分に得意を感じて居る人間が、惨めな相手の一寸したことに対しても持ちたがる憤慨や暴慢というものがどんな程度のものだかということを了解していないからなんだよ。*1