喫茶店の思い出を通して

なんだか疲れていたのでパソコンをいじりながらダラダラしていたら、懐かしいブログを見つけた。

 

わき道にそれて純喫茶2

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大学時代、今となっては少し恥ずかしい気持ちにもなるが、当時の自分は人がなかなか知らない喫茶店を知っていることが嬉しかった。このブログを見てわざわざ隣町の喫茶店に足を伸ばしてみることもあった。もう何年経つんだろうか。まだ続いていて、すごいなと思う。こういうふうに安定感があるものを見るとなんとなく安心する。

自分にとって懐かしい店がいくつかある。まずは町田のプリンス。凄まじい店だった。遊びやバンド練習の合間に通った。それから、国分寺のアミー。国分寺のライブハウスに出ていた頃によく行った。八王子のフランク。昼飯時には混んでいたけど、空いている時間帯は居心地が良かった。どの店も閉まってしまった。

おそらく人生には局面があって、ある時期とまたある時期が同じ局面にあるのか、違う局面にあるのかによって、感覚が断絶していたり継続していたりする。今の自分は大学時代とは明らかに違う局面にいる気がしていて、こうして大学時代に通った喫茶店のことを思い出すと、なんと言うべきか、崖の向こうにある遠くの地点を眺めているような気分になる。大学院時代に通った喫茶店もまた同じように懐かしいには懐かしいのだが、そこに到達できるのか否かという点で、大学時代のそれに感じる懐かしさとは質的な違いがある。

あの頃はみんながいた、という気分になったが、実際のところどうだったんだろうか。ノスタルジーに侵されているだけで、実際には今とあまり変わらない気がする。仲の良い友達がいて、それが離れていったような気がしていたけど、単純に周りに人がたくさんいて、それが今よりも多かったというだけのことだったのかもしれない。声をかけたり、かけられたりする回数が多かっただけかもしれない。仮にそうだとして、どういう結論を導くべきだろうか。自分にとって多くのものは所詮その程度の関わりでしかなかったと言うべきか、その程度の関わりこそが人生の大半を成す軽視できないものだと言うべきか。どんとの「うわの空」という歌に「いろんな奴が次々と現れて消えていく。さようなら、やさしい人」という歌詞があって、このフレーズは何かを言い当てているように思える。

 

コロナウイルスに関するこの間の情勢を反映してTwitterのタイムラインが殺伐としている。何しろ問題ばかりだし、この局面においては批判や分析、警告、情報共有、その他諸々は必要な態度だと思うので、それ自体は問題ないと思うんだけど、適当なことを喋りにくい雰囲気には違いない。そういうわけで、ここで適当なことを書いて自分なりに息抜きを試みている。